風来坊@真幸福知

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「理屈」「理不尽」 についてつらつら考える

(長いです. すみませんm(. .)m)

「理屈」という言葉は「ものの道理」とか「論理」という意味なのだろうか?

若い頃に父と話をすると, 「理屈ではないんだ」とよく言われたものだ.

「理屈」という言葉は, 「理屈ではない」のように使われる時, 「現実とあわない机上の空論のような論理的思考」という意味で使われるみたいだ. 「あいつはよく理屈を言う」と使われる時は, 一見論理的に話しているように見えて実は自分に都合のよいことだけ取り上げて自分の欲望を通そうとしているような場合かもしれない.

「理屈が通っている」のように肯定的に使われるよりもむしろ「理屈通っているが...」と否定的な意味で使われることが多いようにも思う. 父の言然り.

理屈という言葉は「理」と「屈する」である. つまり, この字をみれば本来「道理を(自分勝手に)まげて利用する」ということを意味しているようにも見える. ところが, 調べてみると「理屈」は本来「理」, 道理の洞穴と書くようだ.

http://www7b.biglobe.ne.jp/~w3c/kotoba/kokugo/kotoba/Rikutsu.html#Koku

確かに, 水脈が岩の間を穿(うが)ちながらつながって伸びる様子は, 自然の原理にしたがって物事が発展していく様や, 論理に導かれて未知の領域を探索して行く科学の道を連想させる(フローチャートってこと?). ものの道理を明らかにしそれを利用しようとする科学技術やもの創りの世界に少しでも触れてみれば, 論理から外れたところにまともなものは何も存在できないという厳然たる事実を目の当たりにする(偶然のように答えが見つかったり, 論理の許容範囲はけっこう広かったりもするが...).

1962(昭和37)年に国語審議会が旧字を含む漢語の当用漢字への書き換えをやった結果, 「窟」→「屈」となったとのこと. しかし, 「洞窟」では今でも「窟」が普通に使われていて, 「窟」は当用漢字ではないが常用漢字として常用されている. それなのに「理窟」は「理屈」と一回変更されてからこちらに固定されてしまったようだ. (これからは「理窟」と書こう!)

当用漢字は1946(昭和21)年に国語審議会の答申により内閣が告示した当用漢字表(1850字), 常用漢字は1981(昭和56)年に国語審議会答申により内閣が告示した常用漢字表(1945字), その後2010(平成22)年の改訂を経て改訂常用漢字表(2136字)となっている. 当用漢字表常用漢字表の告示で廃止.

こうして「窟」の字は当用漢字から漏れたために「理窟」から外され, 常用漢字で取り入れられたものの一旦「まがって」しまった「理屈」はもとの「理窟」に戻らなかったということか...

先のwebサイトでもコメントされているが, 日本人はともすれば習慣や情緒に頼って「理窟」を疎んじる傾向があり, それでこういう言葉の表記とか意味に無頓着なのかもしれない...かな?...と思ったりする.

「事実」と「理窟」の厳然たるものであることを身にしみて認識していれば, 事故や災害を未然に防ぐこともできるし新しい物を創りだし新しい世界を開拓するパイオニアにもなれるのだが...(某国を連想)

「理不尽」という言葉もある.

6年前の春, 某大本山に上山した朝, 古参和尚たちによる意地悪そうな語調の「な〜にしに来た?」「修行だと?」「ホントにやる気があるのか〜?」などの問いに, いっしょに山門に立った若い修行僧のひとりが「..理不尽なことがあっても折れずに...」と応えたとたん(きっと横に並ぶ皆が「あぁNGワードorz」と思ったに違いない), 「なんだと? ご本山に理不尽なことがあるとでも言うのかぁ?」と返された. その後どう収拾したかはおぼえていないが, 門を通してもらえた時には坐蒲を抱える左手が冷えきってこわばりなかなか動かなかったことだけ記憶している.

さて, 「理不尽」. 「道理が通らない」意味だそうだが, 本当はそうじゃないんじゃないの?と思ったりする.

素直に読めば「理が(は)尽きない.」

理解できないが, それは人間(当事者)の頭ですぐには受け入れることができないだけで, 自然の理は考えの及ばない所まで及んでそこで通じているということなのだと思う. 考えが浅ければ理不尽なことは多く, 深ければ理不尽なことは少なく, 天の視点で見れば全ては理が通っているのでしょう.

世界がまだ平和でないことも, 日韓関係のこじれも, 日本で原発事故が起こったことも, 今年災害が多いことも, なかなか仕事が片付かないことも...(笑)

何か, 日本人にとって「理」とは何だろうと考えさせられる. 理系の世界でも, 「不確定性」とか「ファジー」とか「あいまいさ」の科学とか, そういう「ソフトな感じ」に聞こえる話が一般にもてはやされやすい気もする.

日本人の宗教観もその影響を受けているのではないか?

宗教というものはいろいろ教義が違ってもよくて, それは考え方の違いだけだとして広く受け入れる. 宗教の中にまじめに「真理」を求めて, 現実世界と結びつけようとするから「原理主義」の争いのような害が起こるのだという人もいる.

これは寛容なようだが, 下手をするといろいろな宗教が暗に伝えてきた共通する重要な思想の部分についてさえ見過ごしてしまって, 宗教を形骸化させ面白くなくしてしまっている一因ではないかと疑う.

同じ仏教でも, 宗派によっても理想世界(極楽とか)や地獄の想定は異なり, そういうストーリー(信者教育用の?)の違いが論理の不整合を招いて, 論理そのものへの否定的な態度になっているのかもしれない. 禅に至っては「不立文字(ふりゅうもんじ)」「教外別伝(きょうげべつでん)」と言われるように, 言葉(つまり論理)による真理の表現を真っ向から否定しているかのような態度もある. 世界観の議論が耐えない時代を経て, そういう不毛な論戦に決別して実体験からの「確信」を人づてに伝えるという方法に行き着いたのだろうが, それが論理そのものの否定と思われている節もある.

お釈迦様に始まり大乗仏教として発展した思想は, たぶん基本的に「固定した世界観」に対して否定的である.

ただ「空」といって, 「あらゆるものごとは互いの因縁の中で存在するのであって固執してもしょうがない」という事実を見よという.

これはとても柔軟な考えで, 2000年前の当時の限られた知識から世界観を構築しようと思ってもあまりうまく行かないから, 「そう急がずに, まずはあるがままを観察することからはじめよう」とも聞こえる.

現代に至って, 人間の世界に対する認識は広がった. まだ無知だとは言うが, 我々はお釈迦様でもご存じなかったことを数多く見て知るに至った. そして再び「空」=相互作用による存在, という発想に納得し, さらにはユダヤ-キリスト教, イスラム教の一神教的世界観にも合理性を見出すことができる段階に至った. つまり存在する物たち, 生き物たちの中にある, まさに想像を絶する(「理不尽」!)巧妙さと美に感服し, 人間という存在の問題に苦悩するという現代の人間の立場である. これは宇宙の中の王宮の王子, お釈迦様の時代のシッダルタの立場に, 少なくとも先進国と言われる国々の多くの国民が立っているということではないか?

現代人が共有する世界認識にいたった道で人を導いてきたもののひとつは「理」であり, その先にはさらに「不尽」なる「理」が溢れる未知の世界が広がる.

日本人は「理」をもっと尊重すべきだと思う. 東洋人は..かもしれない?

感性とか, あいまいさを好むというのもあるが, 綿密な理の限界を見極めて(細かい究理はあきらめて?)ザックリとした所でまとめるのは工学のワザ(諦めと行動?), これも「理」であろう.

え? 「お前は頭で考えてばかりおる」? ごもっとも...m(. .)m

合掌