風来坊@真幸福知

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始まりは坐禅会のご案内, 思いつくことを何でも書いていたら星空系に... Started with Zazen session info. now almost astrophotos. 시작이 참선회 안내, 이제 별하늘 사진들.

読経(どきょう)について

当山では朝6時から朝課を行ずる. 日中諷経と晩課は, いろいろな用務があるので略する.

それでも, 10年くらい朝課を勤めていると読経の効果などに気づいたりもする.

曹洞宗行持規範」によると

大衆, 一同にて誦むときは, とくに高声, 励声であってはならない. 「耳でよむ」というように, 他人の声を耳にし, 他との速度を調整しながら中音に誦み, 不揃いにならぬようにする. また, 自分一人, 高下曲節をつけてはならない. 平らに品よく誦むべきである.

と書いてある.

中声とは「地声」, つまり自分が息を吐く時に自然にでる音程である. と私は思っている.

(ちまたでは「地声」を変な力の入った汚い音という意味で使われているかもしれないが, 私から見たらそれは意味の取り違えである)

声帯にとくに力を入れなければ, 高くも低くもない自分にとっていちばん楽な音がでて, 喉から鼻腔, 肺, 体腔全体に共鳴する. その振動は悪くない感じがする.

音程を変えずに音量を大きくするためには, 腹に力を入れて, 息を押し出す圧力を高める.

そして, 読経するときの呼吸は, 必然的に吸気をすばやくして, 呼気をゆっくり時間をかけて吐き出すようになる. これは瞑想などで気分を落ち着かせリラックスした状態を得る効果のある呼吸法と同じである.

発声による体腔の振動も効果があるかも. 朝起きたばかりのとき, のどがいがらっぽかったり, 痰が絡んだりしていても, 読経した後は喉がよく通ってすっきりとする.

 

某本山での修行ももう10年前のことになった.

私のいた祠堂は毎日参拝の方々の申込により供養や施餓鬼の法要を勤めるところで, たしか通算で700座以上の法要に随喜(法要に参加すること)させていただいた.

最初にお世話になった寮長(その部署の修行僧のリーダー)は20代半ばでダンサーのような身のこなしの方だったが, 新参の者にはとにかく大きな声を出すように指導された. それで, 皆必死になって大きな声を出した.

皆の大きな声がぶつかり合い, さらに鐘や木魚の音が加わると, 不思議とそれらが混ざりあって, 調和した響きに入る. そして, 時々自分たちの声ではない非常に高い倍音成分が生まれて, 天使の声のように天井から降ってくることがある.

そういう音を聴いて感動をおぼえたことが何度かある.

その次に修行させていただいた洞松寺では, 外国人の修行僧が多かったが, そのうちの一人が「堂長老師の読経は低く静かだがとてもパワーがある」と話していたのを印象的に記憶している.

長年読経してこられた功徳が御体に刻まれて「静かで力強い」音を発せられるのかも知れない.

その後, 韓国の大学で仕事をしていたとき, 東欧出身で米国の研究所に所属する, かなり年配の客員教授が居られた. その先生はハイキングと話が好きで仏教的なものにも関心が高いらしく, ちょっと親しくなって, 一日いっしょにポハンの市内から公園を散歩したことがある.

ウルルン島はいいところだったとか, 死んだらウルルン島に葬られたいとか, カナダの山でクマに出会った話を聴いた.

クマの時は, 近くにあった岩に上がって手を大きく広げ(自分を大きく見せると良いらしい), ゆっくりと低い声で般若心経(欧米ではHeart sutraというらしい)を唱えてみた. そしたら, クマはしばらく(怪訝な顔をして?)見ていて去っていったそうだ.

時に「お経」は話の下手な先生の退屈な授業の喩えに使われることもあるようだが, なるほど, 低音で抑揚のない音は人も動物もリラックスさせ, 気を静めて眠くさせる効果があるのかも知れない.

 

朝課のときにふと考えたので, たまには坊主らしい話を書くことにした.

 

合掌