例によってお盆には棚経. 檀家さんや近所の家々を回ってご先祖様方を祀った仏壇や祭壇で読経するのを棚経という.
去年に続いて今年のお盆も前半は激暑. そして14日からはこちらにまっすぐゆっくり北上してくる台風と競争する感じに... 幸い15日午前もそれほど荒天にはならず(台風の中心は午後この辺を通過したらしいのだが..)曇って多少涼しくなったのがありがたいくらい. なんとか無事に廻り終わった.
読経したら仏壇に祀られた位牌の戒名を見て先祖供養の回向(えこう, 「◯◯経をだれそれの冥福(菩薩行の成就)のためにお唱えしました」というの)をする. そして「冀う所は家門繁栄, 子孫長久, 災障消除, 諸縁吉祥ならんことを」と祈る.
ここで, 気になるのが「家門繁栄子孫長久」の部分. 年間5千人の人口流出が進むこの県の実情を反映するように, 訪ねる門々ではお年寄りだけの世帯, 結婚しない子, 後を継ぐ人がなく墓じまいという話など, 先細りの家系に出くわす. 次世代のいない家で子孫長久を祈ることは意味がなく, かえって不適切なのだろうということで, この部分は削除するように気をつけるという話も聞く. しかし, 今年はふと考え直した.
あの世にいる人々は子孫がなければ誰の守り神になるのだろう? 直系の子孫が無いとこの世に未練なく, ヒラヒラとあの世での幸福を追求するのだろうか?
そうではないのではないかという考えに至った.
天, 神様, 仏様... 呼び方はさておき, 私たち人間が究極的に信頼し自らを委ねる存在は親のような存在であるとすれば, 私たちも親らしくなることでそれに似たものとなり, 究極的な欲求が満たされるのだろう. たとえ血がつながった子孫ではなくても誰かを親心を持って慈しむことによって, それを体感することができるだろう. 親戚の子でも, 近所の子でも, 教え子でも, 縁あってお世話をすることになった人でも良い. そういう縁を通じて親心を知ることによって人間(の霊?)は成熟するのではないだろうか?
だから子孫長久を祈ることはあの世にいる人々に対して, 親心を持ってこの世に生きる縁ある子孫たちを見守る守り神になってくれるように願うこと, そしてそれが彼ら自身の満足と幸福をもたらす道でもあるのだろうという気がしてきたのである.
それで, どんな家に行っても家門繁栄子孫長久を削らずに祈ることにした.
これが2019年棚経の所感, 与えられた悟りということにしておく.
<合掌>