所用がありポハンから南へ70kmほどのウルサン(울산)に行くことになった. ウルサンは文禄・慶長の役(イムジンウェラン 임진왜란)の激戦地として知られている. それに関連した場所を見るべきと突然思いたち,調べてみた. 城の史跡が2か所: ハクソン公園(학성공원 鶴城公園)とソセンポウェソン(서생포왜성 西生浦倭城)というのがある. 昼前に出発し, 所用の行き帰りに2つの城跡に立ち寄った.
前者, ハクソン公園は市内の住宅地にある丘である. 近代になって1913年にキムホンジョ(김홍조)と言う人が土地を買って植栽して公園化し, ウルサン市に寄付したとのこと. 加藤清正が築いた城だが, 朝鮮と明の連合軍が城を取り囲んで補給路を絶ち兵糧攻めにした記録が残っている. 城内は紙を煮て食べたり馬の血や小便まで飲んで餓えと乾きをしのぐほどの惨状だったという. 日本の戦国時代の城のように造られていたらしいが建物は倭軍が退却する時に焼き払っていったとのことで, 遺っているのは一部の石垣だけ. この地域にあった独特のつばきを清正軍が日本に持ち帰って京都に植えたのが今も生存していて, それが1992年にここに贈られ繁殖している. 花が白やピンクのまだらで, 普通のつばきと違って散る時に花びらが一枚ずつ落ちるという.
("〜之丸"など日本の城の用語そのまま.)
(ここが天守への入り口の門があった場所. 石垣が残る.)
(兵糧攻めにあった城内の惨状の記録など説明されている.)
(なぜ"鶴城"と称されるのか分からなかったが, 天守台の広場に鶴 :-)
(日本に持って行かれて400年後に戻ってきた椿の話とモニュメントとしての少女. 日本に持って行かれたために保存されて再び戻ってきたとも言える. こっちには無くなってたらしいから.)
ハクソン(鶴城 학성)のちょうど向かい側にもうひとつ丘があり, こちらは明朝連合軍が陣取って指揮した場所. そこには当時戦で亡くなった殉国者を祀る祠堂, チュンウィサ(忠義祠)が建立され, 位牌が祀られている.
後者のソセンポウェソンは, どんなものかあまり知らずに行ってみてびっくり. 市内から工業地帯を通り抜けた先の, こじんまりした海岸に近い丘だが, 巨大な石垣が山頂付近にたくさん遺っている. 一部, 展望台として新たに復元された部分があり, 海岸までの街と海上を行き交う船たち(ウルサン港が近いので船がたくさん!)が一望できる. ここも加藤清正が築いたらしく, 1594年にサミョン大師(泗溟大師 사명대사)が和平交渉のため加藤清正と会見した場所. この城は丈夫に造られていたので, その後に1895年までこの城をソセンポジンソン(西生浦鎭城 생포진성)として朝鮮が使用したとのこと. 確かに石垣の遺物を見ただけで, 海を渡って来てこれを建てるとはスゴイわ倭国(*_*)と驚くくらいだから, かなり丈夫だったんだろうと思う.
(天守台の広場. かなり大規模だった気配.)
(展望台からのパノラマ)
(上でいろいろみてから下りると, さりげなく入口にあった石垣も... これもかぁ!と気づく.)
ウルサンの激戦では, 清正の軍の鉄砲隊を率いる武将が「この戦いには義がない」として寝返り, 朝鮮に亡命して朝鮮の英雄になったという記録も有る. 王からキムチュンソン(金忠善김충선)の名を下賜されテグ(대구 大邱)に領地を得て住んだという. そこには記念館ができていて日本の観光客を歓迎している. そちらもそのうち紹介するつもり.
そういえば卒業生のY君が結婚式の招待状を持ってきてたのは今日じゃなかったか? たしかウルサンだったはずだが, すっかり忘れていた. 韓国の結婚式招待状は日本ほど重い意味をもつものじゃなく, 職場関係者や学友・恩師は比較的気軽に参加する程度のもの. それでもY君には悪いことをした.
それも含め, なんだかウルサンな一日だった.