こんな本を見つけてキャッチーな題名に思わず買ってしまった. どうにもならないどん詰まりで坐禅に出会って道が開けるみたいな話. ありそうな話かな, とは思う. 坐禅会に参加した各々の感じるところがリアル. 宗教との出会いというのは多かれ少なかれ似たような所があるような気もする.
本の中身とは関係ないが, いろんな人の苦労する姿, 自分がしてきた多少の苦労, 本に触発され徒然なるままに出てくる言葉を書き留めておく.
---- ここからエッセイとも詩ともつかないモード ----
自分が苦労して疲れ果てていると, ある人が言う「神様に愛されてますね」.
「うるさい!」と言いたくなる.
(それはそれで含蓄の深い言葉なのだが, とりあえず受け入れる余裕なし.)
温かく眩しい春の日差しに触れると, かえって自分にはかまわず巡る季節に無情さを感じ腹立たしくなったりする.
我知らず, 「こんなんでも春はまた来るんだ.」とつぶやく.
とりあえず, 春が来たことだけでも喜んで鑑賞してみようという気が, ちょっとだけ起こる. とりあえず, まだ生きている自分が, 子どもたちがいる.
(神様, 私に何をさせるんですか? この人の面倒を見ろと? そろそろ無理です. ここまでよくやったと言ってくれてもいいでしょう.)
またある人は言う. 「心身がつらいときは自分の健康のことだけ考えて, 何かいいことしたらいい.」
ストレッチなり, 食事の改善なり, 瞑想なり...
まあ体調でも良くなると少し心も明るくなるかもね.
心は手のつけようがないから, まずは外形から矯正してみようということだ.
瞑想への導入方法としてはそれもあり得るのだろう.
効果はある. 中年男が職場と家庭のストレスに倒れそうな時に, なんとか不要なストレスを整理して安定をとりもどす助けにはなる.
きっと中年女にも効果はあるのだろう.
「まあ坐らや.」
これが, 只管打坐(しかんたざ)を宗とする道元禅の極意であると私は見る.
人は, あれやこれや言いながらやってみようとしない.
または, ちょっとやってみて自分には無理だ, 向かないといって止めてしまう.
「毎日15分を1週間続けてみましょう.」
「長く修行した人は違うかも知れないが, 私のような凡人が15分で何が得られるんですか?」
そうじゃないんだけどな〜.
「普段生活の中で15分間何も喋らず, 動かずにいることがありますか? 無いでしょう? やってみたら何か始まりますよ.」
ということにしている.
「実験と思ってやってみませう.」
実験が嫌いな人は絶対にやらないだろう.
人生というのは実験の(またはその機会の)連続なんじゃないかと思う.
足が組めないことを気にすることはない.
背筋が伸びて真っ直ぐな木になった気分になれるように, 適当な坐り方を探せばよい.
目は閉じないで, 特にどこを注視するともなくぼおっと見えるままに見ておく.
息を(普通に)吸って, ゆっくりはく. ここに気をつけて.
そのうちいろんな想いが湧いてくる.
執着もせず, 雑念を払おうともせず, 想いの流れるままにまかせて, それを観察する気分でいる.
この過程が大切で, 時間がかかる.
しばらくやってみると, そのうち, 40分くらい時間が必要と感じるようになる.
その先は...
ハリーポッターに出てくるダンブルドア校長が記憶を整理する「ペンシーブ」(憂いのふるい)のようなものだと思う.
自分の体面や恥に大した価値はない.
他人がどう言おうと自分は自分である.
過去と他人は変えられない.
自分の悪いと思うところは本当に悪いのか?
自分の良いと思っていることは本当に良いのか?
自分が本当に問題と思っていることはなにか?
自分が本当にやりたいと思っていること, やらなければならないことは何か?
自分を知るためには他人と交わることが必要である. その交わり方に問題があるとき, 人間関係のストレスが生じる.
坐禅なり瞑想なり, 一時的に他人との交わりを断って自分自身と交わることは, それ自体がゴールではなくて, 他人との交わり方を治すための過程に過ぎないと思う.
(こんなこと言うと道元と違うと言われそうだ.)
人間は人間だからだ.
神様だって人間と交わらなければその正体さえ現れない.
---
明日は6年めの311. 犠牲者の7回忌か.
ここ韓国で行われている慰霊祭に参加してみることにしている.