スズメノカタビラ(イネ科イチゴツナギ属)
ニガナ(キク科ニガナ属)
お寺の仕事で境内の管理, 例えば庭掃除はかなりの時間を占める. いわゆる作務(さむ)の一つである. 春が来ると, どんどん生えて伸びる草たちと, 見つけては引っこ抜く人間の競争過程が始まる. (そのバランスで庭の草の平均濃度が決まるってことか?) 最近はラウンドアップとかいう除草剤を使うところも増えているようだが, 当寺ではなんか気持ちが悪いので(?)使っていない.
住職夫妻も少し歳をめされておおらかになられたのか, 昔ほど庭の草がどうのこうのと目くじらを立てられなくなったのが幸いである. 草たちも, のほほんとした風体でちょびちょびと顔を出し, 境内をおおらかな雰囲気にしてくれている.
それでも, 春の大般若会(大般若経の経本を転読つまりバラバラと扇のように広げて祈祷するやつ)が近づくと, ちょっと本気の庭掃除が必要になる. まずは草取り, そして庭掃きである.
ツメクサ(ナデシコ科ツメクサ属)
オランダミミナグサ(ナデシコ科ミミナグサ属)
昭和天皇の言葉に「雑草という草ないんですよ. どの草にも名前はあるんです. どの植物にも名前があって, それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいるんです. 人間の一方的な考えで, これを切って掃除してはいけませんよ.」というのがある. ネット検索でも関連記事が出てくるが, 侍従長だった入江相政氏の編による「宮中侍従物語」(角川書店,1985)にあるそうだ.
「雑草」について悩んだことを思い出す. 小中学校の頃(1970-80年台)校庭や寺の草取りをさせられながら「これは自然破壊じゃないのか? 殺生じゃないのか?」と気が進まなかった. 大人たちに尋ねて返ってくる反応は「そぎゃんこと言っちょったらなんだいできんがな」「そぎゃんことは極端な考えだ」など, 確かに自分の悩みが常識的でないのを分かっているのだが, 納得が行かないまま時が過ぎていった.
スミレ(スミレ科スミレ属)
今の日本のお坊さんたちは, ほとんどが常識的な「善良な生き方」以上の戒律を気にしないようだ. 結婚もするし肉も食べ酒も飲む. 釣りや狩猟をしないという人はいるだろうが, ゴキブリやハエ, 蚊を叩き殺し, ネズミを毒殺するのに躊躇はない. 某大本山ではこの季節, せっせとカメムシを退治することが重要な作務でもある.
映画「Seven years in Tibet」では, 中国に占領される前のチベットで僧たちが寺の工事でミミズを殺さないように一匹一匹どけていたりする場面が描かれる. 同じ大乗仏教の範疇なのだが, えらい違いである. しかし実際そのナイーブなまでに戒律を遵守し生命を尊ぶ優しい国民は武力によって征服されてしまった. 邪悪な現実世界には通用しなかったのだ.
てなことを思いながら, 今日も草を取る.
ツメクサ(ナデシコ科ツメクサ属)
私の幼い疑問は解決されたのか?
今はこう思っている. 生き物は, 生き物を食べることによってしか生きることができないようにできている. その連鎖の出発点は, 植物が太陽のエネルギーを有機物に変えて蓄えてくれる炭酸同化作用(光合成)で支えられている. 私たちはみな太陽からくるエネルギーのもとで, 互いに生命をやりとりしながら共生している. 必然的に人間も相手が植物であれ動物であれ, 生き物の生命を頂いて生きている. ときには快適な生活領域を維持するために殺すこともある. それが容量をオーバーしなければ, 世界はそれを許容してくれている.
庭や農地の草を取ったくらいで自然はびくともしない. これは自然との触れ合いのひとつであり, 共生ゲームである...のだろう.
また, 日本独特の食事の挨拶「いただきます」は, 「あなたの生命をいただきます」 ということなのだろうと思う.
草を殺して草を学ぶ. 虫を殺して虫を学ぶ. 生命を頂いて生きる私の生命を, もっと尊い何かのために捧げる.
合掌.
アレチノギク(キク科ムカシヨモギ属)